2017/06/01

菓子店訪問記ー6「雀おどり総本舗」(愛知県名古屋市)・・・旧ブログより移転

 「雀踊りの甘さを老いも若きも」柔道界の理論に新風を吹き込み、最後の十段とも言われた三船久蔵の書による、菓子司雀おどりの円形の看板である。

 中部地方最大の繁華街栄町、100メートル道路中央のグリーンベルトを利用した、市民の憩いの場、南北2キロにも及ぶ帯状公園、中央には日本最初の集約電波塔として空にそびえるシンボルタワー、このテレビ塔を中心として広がる街並みの一角でこの看板に出会うことが出来る。

 この直径90センチ、厚さ5センチの円形の看板も非常に珍しいもの、今は天然記念物に指定されている南方に生息するサキシマスオウ系の植物、その板のように地上に張り出した板根で作られたもの、と言われている。
 まして、書は柔道の国際化にも貢献し、文化功労者としても顕彰された三船久蔵氏である。

 名古屋の菓子と言えば「ういろ」であるが、中でも、ここ雀おどりの「黒ういろ」は絶品。その歯ざわり、こしの強さ、黒糖の素朴なまろやかさは伝統的技法と、現社長の研究の成果に裏打ちされたものである。

 先代は柔道で「技の三船」と言われた天才三船久蔵に師事し、八段迄成ったとのこと、菓子作りにもその理に叶った柔道の神髄がいかんなく発揮されている。三船十段の柔道は一つの得意技で相手を倒すのではなく、色々な技を使いこなして相手を倒す、まさに「技の三船」といわれるゆえんである。体力、スピード、瞬発力、無駄の無い動き、先代の菓子作りはこの理に叶ったもので数量を限定すれば、包餡機より数段勝ったスピードをあげたという。

 柔道の理に叶った合理性を兼ね備えた先代の技と、現社長の独自の繊細な感性とその研究熱心さが、今も多くの人々を魅了する菓子をつくり出しているのだろう。
 毎年、海外に出掛けてはその国の食文化を見聞きし、製造方法、材料の配合方法による味の持続性など各々の商品の持つ「力」などを調査する。
さらに、その時代による嗜好の変化、季節によっても変わる人々の味覚の変化をも見越す、先見性と独創性にはある種の驚きを禁じ得ない。

 三船柔道の神髄で作られた名古屋の銘菓、まさに「雀おどりの黒ういろに勝もの無し」と言えるだろう。三船の柔道がいつまでも語り継がれているように、雀おどりの黒ういろも、いつまでも人々を魅了し続けるものと思われてならない。
 (2007、10、2旧ブログ投稿記事)
2017/05/01

菓子店訪問記ー5月「竹屋製菓」(北海道帯広市)・・・旧ブログより移転

「帯広のそばやきの味わすれがに寄りし竹屋の大人と語れり 志功」世界の巨匠棟方志功がその店のために品名まで書いた色紙である。

 日高山脈と大雪山系に囲まれた道東十勝平野のほぼ中央に位置している帯広、北に十勝川、東に礼内川、街の中央に帯広川が流れており、大自然に抱かれた町帯広、その一隅にある菓子店竹家さんでその色紙に出会うことが出来た。

 比較的歴史の浅い北海道では三代も続く竹屋さん、この帯広で文化勲章まで授賞した世界の巨匠棟方志功の色紙をかけ紙にした道東の銘菓「そばやき」なんと包装紙まで棟方志功作とは、それも竹屋さんのために商品名迄書かれ、北海道の四季を表した包装紙とは驚きひとしお。

 現在の三代目ご主人によると今から二十五~六年前先代が銘菓「そばやき」に合う包装紙を専門家に頼んだりしたがなかなか自分の考えに合わない、その時ふとテレビに目をやると棟方志功先生が対談で物を作るときの心構えを述べられていた。

 先代「この方だ、このお菓子に合う包装紙を作ってくれる方はこの方しかいない」とやもたてもたまらず、菓子を持参して先生を訪問。
 先生は「このそばやきは、素朴な中にも何とも言えない味がある」と大変喜ばれ、意気投合。

 先代の包装紙に対する考え方は商売として売れそうな物というよりも、この風味豊かな素朴な味わいをもった「そばやき」を生かし、守ってくれる包装紙を作りたいと。なんとお菓子に対しての愛情溢れる心情だろう。

 先代は「菓子屋は自分の力ではなく、関係する皆さん方の御陰のもと商売させて戴いている。この報恩感謝の気持ちが先生の自力よりも広大無辺の他力によって版画がなるというお心に合ったのでは無いか」と「私どもにしては勿体ないくらいの素晴らしい包装紙を残して下さってあり難いと思って感謝しております」と常々話されていたとのこと、先生とのさわやかな交流を忍ばせるまことに清々しい話。

 三代目現ご主人はお菓子は人の口に入る物だから原料を吟味してこの自然豊かな帯広に感謝し、時代に合わせながら基本的な伝統を守っていきたいと。棟方志功の言った「自然を大切にした素朴な味」その素朴な風味で日常の喧騒を忘れさせて貰いたいものである。
 (2007、10、2旧ブログ投稿記事)
2017/04/04

菓子店訪問記ー4「濱田屋本店」(栃木県宇都宮市)・・・旧ブログより移転

 昔は参勤交代や日光東照宮見物の旅人で賑わい「小江戸」と呼ばれていた宇都宮、今では都市基盤整備が進み、近代的な商業都市の様相を見せている。

 立派に整備された宇都宮駅から商店街を抜け住宅街に入る一角に御菓子司濱田屋がある。
 両側に竹林を配し、程よい高さの竹垣、格子戸の玄関、八十年守り継がれた暖簾を入ると正面に木目を浮かせ、畳を利用した商品棚、茶杓、楽茶碗などの茶の湯の道具をも配してあり、ご主人の茶席菓子に対する思い入れの深さを感じることが出来る。

 茶席菓子は茶の湯とともに発展し伝統ある京都の名匠のもとで磨かき抜かれ、茶に調和した季節感に溢れる風味豊かな美しい菓子として、京都という雅びな風土ではぐくまれてきたといわれている。

 現在の三代目ご主人は二十二才の時、その一木一草にも歴史があると言われた京都で修行。「日本の四季が織りなす美しい自然の風物詩を情緒豊かに演出したもの、それが和菓子だと思う」とまた「菓子屋はお客様に対しても素材に対しても誠実でありたい」と誠にすがすがしい。

 「お客様のお名前は皆さん存じあげています」と奥様。殆どがお茶の先生方とのこと。茶の湯で使用されるのも、そのお菓子の美味しさ、お店の方々の心温まる応対の成せることだろう。

 「四季折々の茶の味を引き立てること、器との取り合わせなどを考えながら作っている時は本当に楽しいし、そのお菓子がお客様に喜んで貰えた時は職人として無情の喜びを感じる」と、満足感あふれる表情を見せてくれた。

 これからも菓子作りは、お客様の要望で作る家業的なやり方で自分が納得する和菓子を楽しく作りたいと。

 「日本の歴史、文化を反映している和菓子を今後どう後世に伝えられるか、若い人達も是非本当の和菓子の美味しさ、作る楽しさを知って欲しい、今こそ若い人達と、和菓子屋との歩み寄りが必要な時だ」と、熱心に話されたことが忘れられない。

 お菓子は心なごませるものだから、楽しく作ることを心掛けていると。その気持ちが込められた濱田屋本店さんの栞の一節を紹介させて戴く「一期一会の心を大切に、雅味を創りたきものと菓道追求の日々を、あり難く過ごしております」と。
 (2007、10、1旧ブログ投稿記事)
2017/03/07

菓子店訪問記-3「中家堂」(埼玉県熊谷市)・・・旧ブログより移転

 各町会を代表した豪華絢爛な山車、勇壮な囃子の叩き合いに数万にものぼる人々は酔い痴れ、心踊らせる熊谷の『うちわ祭り』クライマックスで山車が勢ぞろいする旧中仙道、現在の国道17号線、その中心部に銘菓軍配煎餅の中家堂がある。

 軍配マークの中家堂と書かれた大きな看板、ライトアップされた姿は銘菓に相応しく一段と美しい。白壁を配した入口は気品を感じさせてくれる。

 美しくデザインされた軍配マークは、かって武蔵の国と言われた頃の礼節を重んじる勇猛果敢な関東武士の心意気に因み、中家堂の中の文字を図案化したものとのことである。
 全てに軍配の文字をいれた多くの菓子は材料の良さ、優秀な製造技術はもとより、現社長の四代目ご主人の「真心も材料である」との気持ちで作られている。

 次世代を担う五代目のご子息も、冷静な頭脳と熱い心で四代目の一挙手一投足を見守り、その技術、心意気を自分の物にしようとする態度は心打たれる。代々受け継がれたこの研究熱心さが120年も銘菓と呼ばれ続けてきたゆえんだろう。

 「息子はまだまだ」「息子が将来『軍配羊羹、軍配饅頭』をやりたがっているので、その研究成果を見守りたい」という四代目、その言葉の端々に五代目に掛ける期待の深さと愛情のあふれる感じをうけた。

 現社長の実践に裏付けられた言動、時にはユーモァを交えての判り易い説明、奥様によると「独自の個性を持ち良い意味での変わり者です」とのことだがその博学多才ぶりに驚かされた。

 三年程前お客様より「神田神保町の古本屋で八十年程前の中家堂の版画を見た」との連絡。まさか自分の家にも無いものがと古本屋に急行。やもたてもたまらず手に入れた。こんな偶然が有るのか、時の流れを越えて新鮮な感動を得ることが出来、今では掛け紙として利用しているとのこと。

 その版画には中山道熊谷宿の四つ辻にある中家堂。店の前では大八車による荷物の積み卸し、人力車が行き交い、通行人の着物姿が一際時代を感じさせるまさに御先祖を忍ばせる版画であった。

 この版画を見ていると軍配煎餅を食した人は「中家堂ノ前ニ立チテ銘菓軍配煎餅を食シタレバ恍惚トシテ身ハ白雲ノ郷ニ在ルノ思イアラン」とつぶやくのではと思われてならない。
(2007、9、30旧ブログ投稿記事)
2017/02/03

菓子店訪問記ー2月「お菓子司塩野」(東京都港区)・・・旧ブログより移転

 ー赤坂ー 政治の中心国会議事堂、官庁街霞が関、ビジネス街虎の門、そこから歩ける距離に位置する赤坂。まさに都会の奥座敷。

 戦後の一時期赤坂の花柳界は興隆を極め、華やかな花街の情緒をかもし出していた。今では国際色豊かなホテル群、飲食街と変化を見せているが、一歩路地をはいるとまだまだ高級料亭も多く花街の情緒が残るイキな町並みが有る。

 歌の一節にもなった赤坂一ッ木通りから道を隔てた田町通り、そのはずれにこじんまりとした店構えの「御菓子司塩野」がある。

 戦後間もない昭和二十二年に菓子作りの名人と言われた先代がこの地で創業。かっては菓子作りに情熱をかけた職人たちの集まりでさながら菓子塾の様相を呈していたと言う。現在でも菓子塾の性格は綿々と受け継がれているのを見ることが出来た。

 店に入るとネクタイにスーツ姿の従業員、接客態度から言葉使いまで感心することばかり。塩野のお客様は皇室の方々をはじめ政財界、文化人、芸能界から一般ご家庭と大変幅が広い。これだけ愛され信頼されているのはそのお菓子の美味しさゆえだろう。

 ここで働き修行している職人はほとんど菓子店のご子息達である。ここでは一流の菓子の技術を学べるだけでなく、接客態度、研究熱心さ、素材の配合を変える柔軟さなど実家に帰った時充分にその店に合った菓子作りに役立つことが学べる。

 百人以上にもなるという巣立っていった職人さんが気軽に顔をだすのも、社長の人柄がなせる事だろう。また一人立ち先輩の訪問は職人達に大きな自信と活力を与えている。

 昔は時折近くの料亭から三味線の爪弾きが聞こえ、外からは新内流しの美声、誠に情緒溢れる豊かな町並みだったと。

 この生まれ育った赤坂でではぐくまれた社長の感性と菓子作りの名人と言われた先代、研究熱心だった母、その技術と情熱を引継ぎ、良い菓子へのさらなる探究心でつくり出されたのが、美味しいと言われる塩野のお菓子の秘密と思えてならない。

 社長の柔和で優しそうなお人柄、お客様の苦言も勉強になると言う謙虚さ、常に改良を加えていいお菓子を作りたいという信念、そこに良い職人が集まってくる訳を垣間見ることが出来たとの思い。

 『いい菓子を作り続けたい』と、社長のさり気ない言葉。何時までも、人々に感動と、豊かな生活感を与えて欲しいものである。
 (2007、9、29旧ブログ投稿記事)

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