2017/12/01

菓子店訪問記ー12「村岡総本舗」(佐賀県小城町)

 『羹(あつもの)のかくはし甘き肥前小城』
 小城羊羹・村岡総本舗現社長に贈られた松本清張氏最後の俳句である。

 筑紫平野の西北に位置する佐賀県小城町。北に秀峰天山、南に梅咲く牛尾山、四季折々優雅に彩られた大地、天山から湧き出る清らかなせせらぎは美しい流れとなり、かって関東の豪族千葉氏の城下町として栄華を究めたこの町を潤し、風水思想にもとずく豊かな文化をつくり出している。
 九州の小京都と呼ばれ、歴史の面影を今に残す美しいこの小城町で村岡社長にお逢いすることが出来た。

 『銘味和風』「いつまでも忘れ去れない心にのこる味」を社是とする二十一代も続く村岡家も元は関東の武士。先祖は武士から米屋へ、しかも明治の中頃は貧窮に喘いでいた。それを救ってくれたのが長崎より伝えられた羊羹作りの道具一式とその製法であったという。

 明治三十二年、同時十五円の道具により羊羹作りを始めて現在四代目、高温多湿を嫌う羊羹がこの京都に似た盆地の寒冷な厳しい気候と、天山に源を発する澄み切った綺麗な水が、原料の小豆・砂糖と三位一体となって素朴で深い味わいの小城羊羹が生まれたとのこと。

 「羊羹は一個の美術品だ」と夏目漱石も『草枕』の中で賛美している。
この美術品を守るため先人達は限り無い愛情をそそぎ、製造技術の研究もさることながら、それを包むのも「心そのもの」との信念も美しい小城羊羹を生み出した重要な要素と思われてならない。
 直接の包装は空気を微妙に調整し、カビを防止する竹の皮を使用。
更に水分調整の働きをし、経文を写す木であったと言われている木目の美しい経木と和紙での包装。掛紙は日本一の羊羹作りをめざした村岡家代々の思いを託し、明治の書聖といわれた中林梧竹の富士山の周辺が薄墨で形どられた「白富士」。

 「小城羊羹」の名付け親でもある村岡家の真心『人の為に、地域の為に、子孫の為に』がかたちと成った『羊羹資料館』。「先人達の心に目を向け、そこから現代の羊羹作りを見つめ直し、より美味しい羊羹をつくり出したいとの願いを込めてこれをつくりました」と。さり気ない口調のなかにも、羊羹つくりにかける熱き血潮を感じさえする。

 店に隣接するこの『羊羹資料館』で村岡家に代々伝わる「心・愛・和」の精神が確実に受け継がれているのを読み取ることが出来た。

 「とにかく殺伐となりがちな世の中で羊羹を分け合い、食べながら心の余裕を取り戻す。心にしみる春風のような和の精神が大切ではないでしょうか」と、現四代目社長の誠に爽やかな言葉。

 村岡総本舗・羊羹資料館の資料の一節を紹介させて戴く「古くて古いものは滅ぶ。新しくて新しいものも滅ぶ。古くて新しいものは滅びず。村岡総本舗のきがまえです」と。
 (2007、10、8旧ブログ投稿記事)
2017/11/01

菓子店訪問記ー11「但馬屋老舗」(大分県竹田市)

 -名水の町、音楽の町奥豊後竹田-

 九州のアルプスと呼ばれる祖母山、傾山、久住山、阿蘇の山ふところにひらけた小さな城下町、竹田。

 不朽の名曲「荒城の月」で知られる岡城からの眺望は一際美しく、四季折々に変化する大地は幻想的に彩られ、青い空、澄んだ空気、美しい水は心懐かしい故郷の安らぎを与えてくれる。

 この名水の町、古き城下町竹田をこよなく愛し、地域発展のために尽力している但馬屋老舗社長にお逢いすることが出来た。

 初代は江戸時代京都駿河屋で修行、岡藩主に招聘され文化元年この地で御用菓子司として創業したとのこと。以来約二百年近くもお菓子一筋、幾代にも渡り守りつがれた暖簾そのものが伝統であり、歴史であり、文化と思われてならない。

 銘菓「三笠野」は時の藩主が奈良で食した焼き菓子の素朴な味が忘れられず国元にかえり初代に命じて作らせたもの。殿様に喜ばれたのも、二百年近くもの間人気を博しているのも、その単純で素朴な味わいにあるのでは、と現六代目当主がさり気なく話してくれた。

 「三笠野」の最終製造工程は店先で見ることが出来、あたりに漂う香ばしい香りは、かの豊後南画の巨匠田能村竹田もその香りに誘われて、すぐ近くの高台にある屋敷から下りて来たといわれている。「三笠野」の文字は竹田先生直筆とのことである。

 「世の中で一番美味しいものは母親が子供に作る料理や菓子だ。儲けようなど考えない、まがいものでは無く本物のいい材料を使う、手抜きなどしない、その心、その精神を常に心掛けていたい」と。

 さらに「お菓子は家族団欒の重要な役割を果たしている、日本の文化の粋を集めたお茶の世界の重要な要素でもある、茶の湯の心はおもてなし、一期一会の世界であり、精一杯出来るかぎりのおもてなしをする、という心を大切にしたい」と。
現社長のお菓子にかける心意気は慈愛に満ちたほのかな温かみと懐かしさを感じさせてくれた。

 昔ながらの面影を残し、文化の香り高き古き城下町竹田「自信と誇りをもって昔ながらの光輝く、活力ある城下町竹田にしたい」と。竹田独特の文化と歴史の中で社長の故郷を思う心にも接することが出来た。

 歴史と伝統を大切にし、イベントのみにまどわされず、音楽、音を意識した町づくり、景観づくりはこれからも遊び心を持って、地域を楽しみながら続けたいと。

 社長の夢『東洋のザルツブルグ竹田、音楽文化都市構想』が実現されることを!
 (2007、10、6旧ブログ投稿記事)
2017/10/01

菓子店訪問記ー10「標津羊羹」(北海道中標津)

 『古き中に新しき味わい』伝統のうえに時代にあった創意工夫をこらす「標津羊羹」育ての親、長谷川社長の真心である。

 北海道の東に位置する中標津、氷点下三十度にも及ぶ白一色の冬の根釧原野、風雪に耐えた草加が色濃くなる初夏、四季折々に神秘的な色合いをもたらす大地、高台に登れば遮るもののない三百三十度(地区パンフレットによる)の視界、澄んだ青空と幻想的な地平線が一体となり、まさに雄大なドラマを展開する自然王国中標津。

 そのひときわ見事な景観の中で、その自然の特徴にあわせ、長い間工夫を重ねてきた。心がなごむ名物「標津羊羹」に出会う事が出来た。

 初代は大正年間に各地の菓子店を渡り歩く流れ職人、菓子職人としては生菓子から駄菓子迄菓子の全てを熟知、その政策技術も天才的だったため、各職場では若くして職長として一切を任されていたとのこと。

 何事も究極を究めたいという職人気質、行く先々でその土地の気候風土にあった作り方を研究、その探究心がいつまでも心に残る故郷の味を形に出来たのではと思われてならない。

 昭和初期二代目の時代にやっとこの地に腰を落ち着け、北海道名物「標津羊羹」として人気を博するようになったとのこと。

 現三代目社長も常に今の人々の嗜好に合い、老若男女、甘党から辛党まで手軽に食べられる美味しい羊羹作りに心血を注いでいるとのこと、歴史を作るんだとのその心意気には心打たれるものを感じた。

 「和菓子は四季折々の自然を巧みに生活の中に取り入れてきたものであり、その土地の季節を感じさせるもの。仕事で赴任された方々、地方で働く中標津出身の方々が故郷を思い出してくれるもの、それが和菓子だと思う」と。

 さらに「和菓子作りは企業的でなく、お菓子屋としての生き方が本来の生き方のはず、今こそお菓子屋さん自身も考える時期にきているのではないか」と「和菓子は全国に販路を広げる、売上を伸ばす等の経済的なことに労力を使うのではなく、自然を見、自然の香りの中で、その地域にいきずいた菓子が子供の頃の喜怒哀楽とオーバーラップして食べるからさらに美味しく食べられる。これが和菓子の使命ではないか」と誠に清々しい。

 ご子息の「標津羊羹を守のは私の義務と考えている」との固い決意を聞いて何故か大きな安堵感を覚えた。

 オホーツクの海原に流れ込む標津川の清流、その清流から名付けられた「標津羊羹」。 自然を理解し、自然と調和しながら故郷の風味を形にした「標津羊羹」、いつまでも故郷の情景、過ごした日々の思い出を心に浮かばせ、豊かな心を育んでくれる風味であってほしいものである。
 (2007、10、5旧ブログ投稿記事)
2017/09/01

菓子店訪問記ー9「すや」(岐阜県中津川市)

 「木曽路はすべて山の中である、あるところは岨づたいに行く崖の路であり、あるところは数十間の深さ臨む木曽川の岸であり、・・・」島崎藤村の〔夜明け前〕の一節である。

 東に恵那山を仰ぐこの木曽路の南の玄関口、中津川に全国にその名が知れ渡っている栗きんとん本家の「すや」がある。

 中津川は木曽路の四季折々の装いの変化を凝らしす渓谷の美しさと古い町並みの面影をとどめるかっての宿場町。飛騨へ通じる南北街道の起点である旧中仙道をはさんだ中津川の宿は枡形と呼ばれる昔の町作りの名残りや、出格子の町家、本陣、庄屋など、江戸時代の風景がそのまま残されている。

 「すや」はこの中津川で元禄年間に創業を始めて以来、十一代も続く老舗、創業当時は「酢」の店であった。五代目になり甘い物がないこの土地で是非にと、名古屋から駄菓子を仕入れて馬の背に載せ、木曽路を行商したのが菓子屋を始めたきっかけとのことである。

 心の渇きをいやし、しみじみとした幸せな心にさせてくれる甘さを人々にもたらした五代目。その心の優しさと先見の明には驚きを隠せない。

 当時貴重な栗をお菓子にするなど考えも及ばない時、この地の品質の良い栗で、なんとか美味しいお菓子が出来ないものかと、工夫を重ねて考案されたのが、茶巾絞りにした「すや」の栗きんとんである。

 良質の栗でしか作らないため、製造期間も限られている。八代目から続いている製造開始日九月一日には作業場は百人を越える店はさながら戦場と化すとのこと。翌年の一月迄は他の菓子作りはいっさいやめて栗きんとん一筋とのことである。

 特に栗の善し悪し、生産量はその年の天候に左右されるため、栗本来の風味を生かし、毎年同じ味を提供するためにひと一倍の気苦労と製造方法にも工夫を凝らして、この全国的な銘菓を維持する研究は常に怠らないとのこと。

 現在の当主は「是非皆さんに本物を知ってもらいたい、そのためには本物を使っていれば間違いが無いと考えている」と誠に爽やかに話してくれた。

 店頭の書「栗ハ栗ノ味デ」、まさに「すや」の栗きんとんは心に潤いを与えてくれる味。素材の良さ、旬の素材として季節感を大切にし、栗そのものの風味を生かす努力が銘菓として任期を博していると思えてならない。

 昔と今とか混在しているかっての宿場町中津川、ここ「すや」の栗きんとんは木曽路の詩情豊かな風景と調和しほのぼのとした幸せ感を与えてくれた。
 (2007、10、5旧ブログ投稿記事)
2017/08/01

菓子店訪問記ー8「伊勢谷本店」(兵庫県姫路市)・・・旧ブログより移転

 『姫路には過ぎたるものが二つある、山のお城に玉椿』
 木々の緑の間から美しい姿を見せる白亜の天守閣、その壮麗にして緊密な美しさは人々の心を魅了してやまない。白鷺が羽を広げたような美しさから『白鷺城』の愛称で親しまれている国宝、姫路城。

 その時代の粋を集めて作られた壮大な芸術品、世界文化遺産にも登録され、世界一美しい城といわれているこのお城の中で生まれ、以来百六十年以上も愛され続けてきた、姫路の銘菓『玉椿』。
 姫路市の中心でこの二つの過ぎたるものに逢うことが出来た。

 『玉椿』は今から百七十年程前の江戸末期に姫路藩の家老、『河合寸翁』が城主『酒井忠学』と十一代将軍『徳川家斉』の娘『喜代姫』との婚礼の席にと伊勢屋に命じて作らせた和菓子である。『玉椿』には長寿、子宝を願うとの語源があり、これは中国の壮子の「上古に大椿あり、八千歳をもって春となし、八千歳をもって秋となす」との故事からきており、幾久しく将軍家との関係が続いて欲しいとの願いを込めたものとのこと。

 『玉椿』はその姿、形の美しさ、まろやかな舌ざわり、しかも城主の婚礼の祝いの心を託したと言われている銘菓である。素材もその当時としては貴重な卵の黄身に白小豆という最高の原料で作ったものでかなりの力の入れようが分かる。

 「菓子作りは常にこの第二の創業の原点を見つめ、伝統を守るのではなく、伝統を作っていくという心意気を忘れないようにしたい」と。誠に清々しい職人気質を見る思いがした。
 また「決して現状で甘んじることなく技術的にも製品面でも、より良いものを作る。常に勉強と創意工夫を怠らないようにし、市民の為になり、姫路の誇りともなり、日本中でも恥じることのないような菓子作りをしたい」とも。

 伊勢屋さんのその積極的な思考と、常に創意工夫をこらす探究心は時代を越えた今でも、脈々と受け継がれている。

 銘菓『玉椿』のように城主の肝入りで作られ、家老が名付け親という菓子は非常に珍しい。更に時代にあった改良を加えるという伊勢屋さんの希望に満ちた心意気が何とも嬉しい。

 歴史と文化のまち姫路の情報が凝縮された銘菓『玉椿』が土産品となり、御進物となって全国へ旅立ち、美しい白鷺城の思いと共に強い郷愁を誘うのではと思われてならない。
 (2007、10、4旧ブログ投稿記事)