2017/04/04

菓子店訪問記ー4「濱田屋本店」(栃木県宇都宮市)・・・旧ブログより移転

 昔は参勤交代や日光東照宮見物の旅人で賑わい「小江戸」と呼ばれていた宇都宮、今では都市基盤整備が進み、近代的な商業都市の様相を見せている。

 立派に整備された宇都宮駅から商店街を抜け住宅街に入る一角に御菓子司濱田屋がある。
 両側に竹林を配し、程よい高さの竹垣、格子戸の玄関、八十年守り継がれた暖簾を入ると正面に木目を浮かせ、畳を利用した商品棚、茶杓、楽茶碗などの茶の湯の道具をも配してあり、ご主人の茶席菓子に対する思い入れの深さを感じることが出来る。

 茶席菓子は茶の湯とともに発展し伝統ある京都の名匠のもとで磨かき抜かれ、茶に調和した季節感に溢れる風味豊かな美しい菓子として、京都という雅びな風土ではぐくまれてきたといわれている。

 現在の三代目ご主人は二十二才の時、その一木一草にも歴史があると言われた京都で修行。「日本の四季が織りなす美しい自然の風物詩を情緒豊かに演出したもの、それが和菓子だと思う」とまた「菓子屋はお客様に対しても素材に対しても誠実でありたい」と誠にすがすがしい。

 「お客様のお名前は皆さん存じあげています」と奥様。殆どがお茶の先生方とのこと。茶の湯で使用されるのも、そのお菓子の美味しさ、お店の方々の心温まる応対の成せることだろう。

 「四季折々の茶の味を引き立てること、器との取り合わせなどを考えながら作っている時は本当に楽しいし、そのお菓子がお客様に喜んで貰えた時は職人として無情の喜びを感じる」と、満足感あふれる表情を見せてくれた。

 これからも菓子作りは、お客様の要望で作る家業的なやり方で自分が納得する和菓子を楽しく作りたいと。

 「日本の歴史、文化を反映している和菓子を今後どう後世に伝えられるか、若い人達も是非本当の和菓子の美味しさ、作る楽しさを知って欲しい、今こそ若い人達と、和菓子屋との歩み寄りが必要な時だ」と、熱心に話されたことが忘れられない。

 お菓子は心なごませるものだから、楽しく作ることを心掛けていると。その気持ちが込められた濱田屋本店さんの栞の一節を紹介させて戴く「一期一会の心を大切に、雅味を創りたきものと菓道追求の日々を、あり難く過ごしております」と。
 (2007、10、1旧ブログ投稿記事)
2017/03/07

菓子店訪問記-3「中家堂」(埼玉県熊谷市)・・・旧ブログより移転

 各町会を代表した豪華絢爛な山車、勇壮な囃子の叩き合いに数万にものぼる人々は酔い痴れ、心踊らせる熊谷の『うちわ祭り』クライマックスで山車が勢ぞろいする旧中仙道、現在の国道17号線、その中心部に銘菓軍配煎餅の中家堂がある。

 軍配マークの中家堂と書かれた大きな看板、ライトアップされた姿は銘菓に相応しく一段と美しい。白壁を配した入口は気品を感じさせてくれる。

 美しくデザインされた軍配マークは、かって武蔵の国と言われた頃の礼節を重んじる勇猛果敢な関東武士の心意気に因み、中家堂の中の文字を図案化したものとのことである。
 全てに軍配の文字をいれた多くの菓子は材料の良さ、優秀な製造技術はもとより、現社長の四代目ご主人の「真心も材料である」との気持ちで作られている。

 次世代を担う五代目のご子息も、冷静な頭脳と熱い心で四代目の一挙手一投足を見守り、その技術、心意気を自分の物にしようとする態度は心打たれる。代々受け継がれたこの研究熱心さが120年も銘菓と呼ばれ続けてきたゆえんだろう。

 「息子はまだまだ」「息子が将来『軍配羊羹、軍配饅頭』をやりたがっているので、その研究成果を見守りたい」という四代目、その言葉の端々に五代目に掛ける期待の深さと愛情のあふれる感じをうけた。

 現社長の実践に裏付けられた言動、時にはユーモァを交えての判り易い説明、奥様によると「独自の個性を持ち良い意味での変わり者です」とのことだがその博学多才ぶりに驚かされた。

 三年程前お客様より「神田神保町の古本屋で八十年程前の中家堂の版画を見た」との連絡。まさか自分の家にも無いものがと古本屋に急行。やもたてもたまらず手に入れた。こんな偶然が有るのか、時の流れを越えて新鮮な感動を得ることが出来、今では掛け紙として利用しているとのこと。

 その版画には中山道熊谷宿の四つ辻にある中家堂。店の前では大八車による荷物の積み卸し、人力車が行き交い、通行人の着物姿が一際時代を感じさせるまさに御先祖を忍ばせる版画であった。

 この版画を見ていると軍配煎餅を食した人は「中家堂ノ前ニ立チテ銘菓軍配煎餅を食シタレバ恍惚トシテ身ハ白雲ノ郷ニ在ルノ思イアラン」とつぶやくのではと思われてならない。
(2007、9、30旧ブログ投稿記事)
2017/02/03

菓子店訪問記ー2月「お菓子司塩野」(東京都港区)・・・旧ブログより移転

 ー赤坂ー 政治の中心国会議事堂、官庁街霞が関、ビジネス街虎の門、そこから歩ける距離に位置する赤坂。まさに都会の奥座敷。

 戦後の一時期赤坂の花柳界は興隆を極め、華やかな花街の情緒をかもし出していた。今では国際色豊かなホテル群、飲食街と変化を見せているが、一歩路地をはいるとまだまだ高級料亭も多く花街の情緒が残るイキな町並みが有る。

 歌の一節にもなった赤坂一ッ木通りから道を隔てた田町通り、そのはずれにこじんまりとした店構えの「御菓子司塩野」がある。

 戦後間もない昭和二十二年に菓子作りの名人と言われた先代がこの地で創業。かっては菓子作りに情熱をかけた職人たちの集まりでさながら菓子塾の様相を呈していたと言う。現在でも菓子塾の性格は綿々と受け継がれているのを見ることが出来た。

 店に入るとネクタイにスーツ姿の従業員、接客態度から言葉使いまで感心することばかり。塩野のお客様は皇室の方々をはじめ政財界、文化人、芸能界から一般ご家庭と大変幅が広い。これだけ愛され信頼されているのはそのお菓子の美味しさゆえだろう。

 ここで働き修行している職人はほとんど菓子店のご子息達である。ここでは一流の菓子の技術を学べるだけでなく、接客態度、研究熱心さ、素材の配合を変える柔軟さなど実家に帰った時充分にその店に合った菓子作りに役立つことが学べる。

 百人以上にもなるという巣立っていった職人さんが気軽に顔をだすのも、社長の人柄がなせる事だろう。また一人立ち先輩の訪問は職人達に大きな自信と活力を与えている。

 昔は時折近くの料亭から三味線の爪弾きが聞こえ、外からは新内流しの美声、誠に情緒溢れる豊かな町並みだったと。

 この生まれ育った赤坂でではぐくまれた社長の感性と菓子作りの名人と言われた先代、研究熱心だった母、その技術と情熱を引継ぎ、良い菓子へのさらなる探究心でつくり出されたのが、美味しいと言われる塩野のお菓子の秘密と思えてならない。

 社長の柔和で優しそうなお人柄、お客様の苦言も勉強になると言う謙虚さ、常に改良を加えていいお菓子を作りたいという信念、そこに良い職人が集まってくる訳を垣間見ることが出来たとの思い。

 『いい菓子を作り続けたい』と、社長のさり気ない言葉。何時までも、人々に感動と、豊かな生活感を与えて欲しいものである。
 (2007、9、29旧ブログ投稿記事)

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2017/01/21

菓子店訪問記ー1「岡満本舗」(徳島県石井町)・・・旧ブログより移転

 優雅な気品を漂わせ、淡紫色の長い花房をつけた藤の花。
その藤の花に限り無いこだわりを持った方にお逢いすることが出来た。

 四国徳島空港から40分程走ると石井町。
広々とした田園風景。と、突然大きな看板『か津ら、ふぢ餅、岡満本舗』故郷を思い出させてくれる本物のこだわりで手塩に掛けて作られた「ふぢ餅」なんともほのぼのとした気持ちにさせてくれる銘菓。ご主人とお客様との心意気が何とも嬉しい。

 町の中央を流れる吉野川の清流。四国三郎と言われた暴れ川も今では心安らぐ田園風景と調和。その吉野川にはぐくまれ、百年以上もの歴史を持つ『ふぢ餅』江戸の文化を味にした銘菓。低農薬、有機農法によるもち米、和三盆を使用した程よい甘さ、原材料から製法迄こだわりの銘菓。まさに夢見る故郷に出会えた風土菓子。

 先祖代々百年以上に渡り銘菓と共に守り抜いたこだわりとは『ふぢ餅』の名前に因んだ「ふじの花」。

 岡満本舗から1町程行くといかにも歴史を感じさせるこじんまりとした寺。今では「ふじ寺」と呼ばれる地福寺、江戸寛政の頃住職が植えた一株の藤、その藤を百年以上も文化財として守り抜いてきたとのこと。

 戦時中、藤は芋畑にするため根本まで耕し、枯れる寸前だった。その時藤の世話をしようと決意。以来毎日心血を注ぎ世話をし「藤を無くすな、藤を無くすなと夢にまで見たという。その甲斐あって昭和28年には見事な花を咲かし、藤祭りも再開にこぎつけることが出来た。

 今では「藤の石井か石井の藤か」と、言われる迄に成った。「藤は私の分身です」と、歴史と文化を守れた安堵感が今でも忘れられないと。

 何代にも渡り藤の情熱を注ぎ、庭先には70鉢にも及ぶ藤の鉢。藤は成長すると鉢が割れ、3年程でひと周り大きい鉢にしなければ成らない、それも全て特注品。その数述べ千個以上になると言う。

 藤一色の石井町、この町の文化、故郷の銘菓をこれほどのこだわりで守り抜いている職人気質に出会えたことに感動を覚え「岡満のふぢ餅」その愛されている訳も肌で感じることが出来た。

 あと百年はこの文化を守り抜くレールを敷きたいと。素材から製造まで一貫して自然環境を大事にした銘菓。守べき文化などを、未来を見据えて情熱的に話されたことが大変耳に心地好い。

 徳島県石井町の藤永遠なれ!
 (2007、9、29旧ブログ投稿記事)