2017/10/01

菓子店訪問記ー10「標津羊羹」(北海道中標津)

 『古き中に新しき味わい』伝統のうえに時代にあった創意工夫をこらす「標津羊羹」育ての親、長谷川社長の真心である。

 北海道の東に位置する中標津、氷点下三十度にも及ぶ白一色の冬の根釧原野、風雪に耐えた草加が色濃くなる初夏、四季折々に神秘的な色合いをもたらす大地、高台に登れば遮るもののない三百三十度(地区パンフレットによる)の視界、澄んだ青空と幻想的な地平線が一体となり、まさに雄大なドラマを展開する自然王国中標津。

 そのひときわ見事な景観の中で、その自然の特徴にあわせ、長い間工夫を重ねてきた。心がなごむ名物「標津羊羹」に出会う事が出来た。

 初代は大正年間に各地の菓子店を渡り歩く流れ職人、菓子職人としては生菓子から駄菓子迄菓子の全てを熟知、その政策技術も天才的だったため、各職場では若くして職長として一切を任されていたとのこと。

 何事も究極を究めたいという職人気質、行く先々でその土地の気候風土にあった作り方を研究、その探究心がいつまでも心に残る故郷の味を形に出来たのではと思われてならない。

 昭和初期二代目の時代にやっとこの地に腰を落ち着け、北海道名物「標津羊羹」として人気を博するようになったとのこと。

 現三代目社長も常に今の人々の嗜好に合い、老若男女、甘党から辛党まで手軽に食べられる美味しい羊羹作りに心血を注いでいるとのこと、歴史を作るんだとのその心意気には心打たれるものを感じた。

 「和菓子は四季折々の自然を巧みに生活の中に取り入れてきたものであり、その土地の季節を感じさせるもの。仕事で赴任された方々、地方で働く中標津出身の方々が故郷を思い出してくれるもの、それが和菓子だと思う」と。

 さらに「和菓子作りは企業的でなく、お菓子屋としての生き方が本来の生き方のはず、今こそお菓子屋さん自身も考える時期にきているのではないか」と「和菓子は全国に販路を広げる、売上を伸ばす等の経済的なことに労力を使うのではなく、自然を見、自然の香りの中で、その地域にいきずいた菓子が子供の頃の喜怒哀楽とオーバーラップして食べるからさらに美味しく食べられる。これが和菓子の使命ではないか」と誠に清々しい。

 ご子息の「標津羊羹を守のは私の義務と考えている」との固い決意を聞いて何故か大きな安堵感を覚えた。

 オホーツクの海原に流れ込む標津川の清流、その清流から名付けられた「標津羊羹」。 自然を理解し、自然と調和しながら故郷の風味を形にした「標津羊羹」、いつまでも故郷の情景、過ごした日々の思い出を心に浮かばせ、豊かな心を育んでくれる風味であってほしいものである。
 (2007、10、5旧ブログ投稿記事)
2017/09/01

菓子店訪問記ー9「すや」(岐阜県中津川市)

 「木曽路はすべて山の中である、あるところは岨づたいに行く崖の路であり、あるところは数十間の深さ臨む木曽川の岸であり、・・・」島崎藤村の〔夜明け前〕の一節である。

 東に恵那山を仰ぐこの木曽路の南の玄関口、中津川に全国にその名が知れ渡っている栗きんとん本家の「すや」がある。

 中津川は木曽路の四季折々の装いの変化を凝らしす渓谷の美しさと古い町並みの面影をとどめるかっての宿場町。飛騨へ通じる南北街道の起点である旧中仙道をはさんだ中津川の宿は枡形と呼ばれる昔の町作りの名残りや、出格子の町家、本陣、庄屋など、江戸時代の風景がそのまま残されている。

 「すや」はこの中津川で元禄年間に創業を始めて以来、十一代も続く老舗、創業当時は「酢」の店であった。五代目になり甘い物がないこの土地で是非にと、名古屋から駄菓子を仕入れて馬の背に載せ、木曽路を行商したのが菓子屋を始めたきっかけとのことである。

 心の渇きをいやし、しみじみとした幸せな心にさせてくれる甘さを人々にもたらした五代目。その心の優しさと先見の明には驚きを隠せない。

 当時貴重な栗をお菓子にするなど考えも及ばない時、この地の品質の良い栗で、なんとか美味しいお菓子が出来ないものかと、工夫を重ねて考案されたのが、茶巾絞りにした「すや」の栗きんとんである。

 良質の栗でしか作らないため、製造期間も限られている。八代目から続いている製造開始日九月一日には作業場は百人を越える店はさながら戦場と化すとのこと。翌年の一月迄は他の菓子作りはいっさいやめて栗きんとん一筋とのことである。

 特に栗の善し悪し、生産量はその年の天候に左右されるため、栗本来の風味を生かし、毎年同じ味を提供するためにひと一倍の気苦労と製造方法にも工夫を凝らして、この全国的な銘菓を維持する研究は常に怠らないとのこと。

 現在の当主は「是非皆さんに本物を知ってもらいたい、そのためには本物を使っていれば間違いが無いと考えている」と誠に爽やかに話してくれた。

 店頭の書「栗ハ栗ノ味デ」、まさに「すや」の栗きんとんは心に潤いを与えてくれる味。素材の良さ、旬の素材として季節感を大切にし、栗そのものの風味を生かす努力が銘菓として任期を博していると思えてならない。

 昔と今とか混在しているかっての宿場町中津川、ここ「すや」の栗きんとんは木曽路の詩情豊かな風景と調和しほのぼのとした幸せ感を与えてくれた。
 (2007、10、5旧ブログ投稿記事)
2017/08/01

菓子店訪問記ー8「伊勢谷本店」(兵庫県姫路市)・・・旧ブログより移転

 『姫路には過ぎたるものが二つある、山のお城に玉椿』
 木々の緑の間から美しい姿を見せる白亜の天守閣、その壮麗にして緊密な美しさは人々の心を魅了してやまない。白鷺が羽を広げたような美しさから『白鷺城』の愛称で親しまれている国宝、姫路城。

 その時代の粋を集めて作られた壮大な芸術品、世界文化遺産にも登録され、世界一美しい城といわれているこのお城の中で生まれ、以来百六十年以上も愛され続けてきた、姫路の銘菓『玉椿』。
 姫路市の中心でこの二つの過ぎたるものに逢うことが出来た。

 『玉椿』は今から百七十年程前の江戸末期に姫路藩の家老、『河合寸翁』が城主『酒井忠学』と十一代将軍『徳川家斉』の娘『喜代姫』との婚礼の席にと伊勢屋に命じて作らせた和菓子である。『玉椿』には長寿、子宝を願うとの語源があり、これは中国の壮子の「上古に大椿あり、八千歳をもって春となし、八千歳をもって秋となす」との故事からきており、幾久しく将軍家との関係が続いて欲しいとの願いを込めたものとのこと。

 『玉椿』はその姿、形の美しさ、まろやかな舌ざわり、しかも城主の婚礼の祝いの心を託したと言われている銘菓である。素材もその当時としては貴重な卵の黄身に白小豆という最高の原料で作ったものでかなりの力の入れようが分かる。

 「菓子作りは常にこの第二の創業の原点を見つめ、伝統を守るのではなく、伝統を作っていくという心意気を忘れないようにしたい」と。誠に清々しい職人気質を見る思いがした。
 また「決して現状で甘んじることなく技術的にも製品面でも、より良いものを作る。常に勉強と創意工夫を怠らないようにし、市民の為になり、姫路の誇りともなり、日本中でも恥じることのないような菓子作りをしたい」とも。

 伊勢屋さんのその積極的な思考と、常に創意工夫をこらす探究心は時代を越えた今でも、脈々と受け継がれている。

 銘菓『玉椿』のように城主の肝入りで作られ、家老が名付け親という菓子は非常に珍しい。更に時代にあった改良を加えるという伊勢屋さんの希望に満ちた心意気が何とも嬉しい。

 歴史と文化のまち姫路の情報が凝縮された銘菓『玉椿』が土産品となり、御進物となって全国へ旅立ち、美しい白鷺城の思いと共に強い郷愁を誘うのではと思われてならない。
 (2007、10、4旧ブログ投稿記事)
2017/07/03

菓子店訪問記ー7「富留屋」(北海道室蘭市)

 「我立てる 即涼山の頂きの 草のみ青き 霧の上かな」 鉄幹
 「灯台の 霧笛のひびきし 淋しけれ 即涼山の 木の下の路」 晶子
昭和六年六月に室蘭の市民から親しまれている、測量山を訪れた歌人、与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌である。

 この測量山をこよなく愛し、山の恵みを材料として、自然味豊かな菓子作りをしている菓子老舗・富留屋さんを訪問することが出来た。

 比較的歴史の浅い北海道で創業九十九年におよぶ老舗である。菓子作りに必要な材料は子供の頃からの遊び場であり、心に染み込んだ故郷である裏山「測量山」から、山ぶどう、よもぎ、笹など、天然の恵みを得て生活の糧にしている。

 自然の恵みを受けて自然と共生している富留屋さん、北海道の厳しい冬があけ雪解けが始まる頃から社長は毎日そわそわし始めるとのこと。薄紅の空から注ぐ乳白色の霧に視界はほのかに明るみ、不思議な酩酊の世界に社長の心は騒ぐようだ、自然を愛する社長が、自然と一体感をもったとき、自己の存在感が増幅されるとおもわれてならない。

 室蘭の銘菓の原料となる山ぶどうは、社長自らご子息の四代目と裏山で収穫、十月の始め山々に初霜がおりると一段と甘味が増す山ぶどう。山の紅化粧が濃くなる頃、ひときわ大きな真紅の葉が連なる。その影に黒紫の房を見つけた時は感動を覚えるのではないか。直径八ミリ程の球形の果実が黒紫色に熟し十五センチ程の房に二十粒前後。

店では全員総出で房から粒をばらし、水洗い。この収穫の量と品質の善し悪しに翌年の室蘭銘菓の出来ばえがかかっている。自然のものは山ぶどうだけではなく、自分たちで調達できる物はなるべく自分たちで五感を働かせながら収穫する。それが一番納得出来る、品質のいい材料となる。

 現三代目社長は山の幸だけでなく、目の前の海の幸をも素材にしようと思案。色々な思考錯誤を繰り返した執念の結晶として、北海ウニを利用した「ウニ煎餅」を開発。今では室蘭市の名物となっている。その優しい磯の香りと舌に残る味わいは、懐かしい故郷を思い出させてくれる。

 今後とも、伝承されてきた技術に、さらにその時代にあった思考・味覚を追求しながら、富留屋でなければ、と言う菓子作りをしたい、と四代目。また「自然の草花の時々に変わる変化、色合いの移り変わりを意識する心が和菓子屋には必要なのではないか」と。
自然をこよなく愛する、社長の厳しさと優しさに裏打ちされた考え方だと思われてならない。

 何よりも慌ただしい今の時代に、自然を愛する心で、自然の野山に入り、ご自身で原料を収穫して、原料と会話しながら商品化する。現社長とご子息の誠に奥深い菓子作りの一端を垣間見る思いだった。

 裏山、測量山がいつまでも自然のままであらんことを!
 (2007、10、3旧ブログ投稿記事)
2017/06/01

菓子店訪問記ー6「雀おどり総本舗」(愛知県名古屋市)・・・旧ブログより移転

 「雀踊りの甘さを老いも若きも」柔道界の理論に新風を吹き込み、最後の十段とも言われた三船久蔵の書による、菓子司雀おどりの円形の看板である。

 中部地方最大の繁華街栄町、100メートル道路中央のグリーンベルトを利用した、市民の憩いの場、南北2キロにも及ぶ帯状公園、中央には日本最初の集約電波塔として空にそびえるシンボルタワー、このテレビ塔を中心として広がる街並みの一角でこの看板に出会うことが出来る。

 この直径90センチ、厚さ5センチの円形の看板も非常に珍しいもの、今は天然記念物に指定されている南方に生息するサキシマスオウ系の植物、その板のように地上に張り出した板根で作られたもの、と言われている。
 まして、書は柔道の国際化にも貢献し、文化功労者としても顕彰された三船久蔵氏である。

 名古屋の菓子と言えば「ういろ」であるが、中でも、ここ雀おどりの「黒ういろ」は絶品。その歯ざわり、こしの強さ、黒糖の素朴なまろやかさは伝統的技法と、現社長の研究の成果に裏打ちされたものである。

 先代は柔道で「技の三船」と言われた天才三船久蔵に師事し、八段迄成ったとのこと、菓子作りにもその理に叶った柔道の神髄がいかんなく発揮されている。三船十段の柔道は一つの得意技で相手を倒すのではなく、色々な技を使いこなして相手を倒す、まさに「技の三船」といわれるゆえんである。体力、スピード、瞬発力、無駄の無い動き、先代の菓子作りはこの理に叶ったもので数量を限定すれば、包餡機より数段勝ったスピードをあげたという。

 柔道の理に叶った合理性を兼ね備えた先代の技と、現社長の独自の繊細な感性とその研究熱心さが、今も多くの人々を魅了する菓子をつくり出しているのだろう。
 毎年、海外に出掛けてはその国の食文化を見聞きし、製造方法、材料の配合方法による味の持続性など各々の商品の持つ「力」などを調査する。
さらに、その時代による嗜好の変化、季節によっても変わる人々の味覚の変化をも見越す、先見性と独創性にはある種の驚きを禁じ得ない。

 三船柔道の神髄で作られた名古屋の銘菓、まさに「雀おどりの黒ういろに勝もの無し」と言えるだろう。三船の柔道がいつまでも語り継がれているように、雀おどりの黒ういろも、いつまでも人々を魅了し続けるものと思われてならない。
 (2007、10、2旧ブログ投稿記事)