2018/02/15

古い写真を(思いで)・・・旧ブログより移転

 最近、写真はデジカメで撮り、パソコンで見るのでアルバムの写真が増えることは少ないが、ボケ防止に役立つと思い、時々古いアルバムを見るときが有る。
 そこで今回は古い写真を(昭和13年1月、77年前)!

 抱っこされている自遊人、お兄ちゃんたちは千歳飴を持っているが当時の七五三は11月15日に限らず、その家族の都合の良いときだったよう(母24歳)!

 一寸古すぎなので昭和34年(56年前)長崎グラバー邸で(まだ学生)、時々コメントを頂くみさわよう様に撮って頂く・・・今よりほんのすこしだけ・わ・か・い・かも!

 カラーで撮影した古い写真、初めて奥方と旅行した昭和41年3月(49年前・ちまたでは新婚旅行ともいう)のアルバムのページを!

 
 
 ヘビースモーカーだったのでその時々に貰ったマッチ!
 又、古い写真投稿するかも? 
(2015、4、16旧ブログ投稿記事)   
2018/02/06

戦時中疎開先で覚えた歌「ジンジロゲの歌」「ルンペンの歌」思い出・・・旧ブログより移転

 今年は戦後70年ということもあり8月15日が近づいてくると戦争時の話題報道が一段と多くなる。

 戦争の話では無いが戦時中疎開先で覚えた歌「ジンジロゲ」「ルンペンの歌」を!

 昭和20年戦争が激しくなり田舎を持たない学童は学校から各地方のお寺や旅館に学童集団疎開した。

 小2の時、疎開先長野県望月村の旅館で覚えた「ジンジロゲ」の歌は昭和40年代前後の企業人時代宴会芸として歌い踊っていたが昭和61年森山佳代子が歌い大ヒットした時「オレ、元の歌を歌える」と!
インドの「雨期礼賛の歌」と知ったのはそのあたりで有る。

 宴会などでは歌の意味などまったく分からないし、知っている人も居なかったので実際の元歌と歌詞が違おうがお構いなしだった。

 小2の時覚えた歌は抑揚が無くテンポの早い歌だった。

 元歌はどうも大正時代から歌われていたようであるが70年間未だ知っているという方にお会いしたことが無い!

「ジンジロゲの歌」

 ジンジロゲやジンジロゲや、ちょちた~る、かーとらっぱ、はーとらっぱ、つえつえ、まーどりんぐ、まーどりんぐ、わいわいわい!

ちったり、ばったりきこえ、みなみはぱみよ、ちょんちょのきこえ、ちょんからりん!

あんころもち、あんころもち、ちょちなわぺるからりん、わーせせせせ、しゅはしゅるりん。しゅんしゅんしゅん!

そにそじゃ、うじゃくそ!

「ルンペンの歌」(覚えているのは1番だけ)

 青~い空から札束が降って!

5両、十両、百両で千両(とろり昼寝のほっぺたたたく)と思ったら目が覚めた。

 ワ~ハハハ、すっからかんの空財布

 でもルンペンのんきだね~


 ジンジロゲの歌検索してみると大分違うようたが教えてくれた人の意図があったのかどうか今では全く判らない!

 ルンペンの歌も大部省略しているが昭和9年ビクターから発売されていたとのこと。

 この歌を口ずさむと小2の疎開先の川で5㎝ほどの魚を捕り成長してから食べようと器に入れたが翌日死んでそれをたき火で焼いて食べた等懐かしく思い出す。
(2015、7、25旧ブログ投稿記事)
2018/02/04

終戦日・当時の小学校の思いで・・・旧ブログより移転

 昨日の朝日新聞夕刊に「敗戦の日の記憶繋ぐ」と、社会面ほぼ全面記事で「私の8月15日」として高倉健や漫画家、作家が敗戦の日の記憶をつづった本が復刻すると出ていた。

 以前にも終戦の日の事を書いたが、8月15日は東京杉並の和田小2年生、学童疎開先長野県望月村の旅館で迎えた。

 当日、大音響がして皆が居る場所から少し離れた豚小屋に爆弾が落ち豚が全滅、空母に帰還する米機が帰りに自重を軽くするために爆弾を落としたと聞いた。

 数日後自宅に帰る際にはそのトンシした豚のブロックを土産に持たされた。
 兄、姉との3人なので3ブロック、当時は冷蔵庫など無いので即ご近所に分けて皆から喜ばれた記憶が有る。

 数日後、疎開先から帰宅時、列車が東京の中央線中野駅に着くとバスがやっとすれ違いが出来る狭い道(現在の環状線7号線:当時は中央線北側は未開通)内側は見渡す限り一面焼け野原、見える景色は所々に有る校舎などの防火壁と焼け焦げた電柱や大木!

 帰宅児童全員で先ず青梅街道を横切り和田小学校まで歩いたが途中には六角形の焼夷弾の薬きょうの筒が散乱、当然校舎は無く校庭だけ、幸い環状7号線の外側は空襲を免れたので家は無事、父兄の迎えを受けて自宅に帰る。

 翌日からの勉強は当初、焼け残った役所の出先機関、数か月後、旧立正佼成会本部(教祖庭野氏の自宅、現立正佼成会本部は当時は岩崎邸の大きな池)近くに有ったお寺の本堂、当然各学年クラスなどは皆が一緒に集まる場所が無くて各所に分散、机など無いため各自、木のミカン箱を持参、机代わり!

 翌年小3に成り近在で焼け残ったセイビ山の隣の大宮小学校に間借り、やっと机、椅子での学校生活だがランドセル等無いので教科書は皆風呂敷で、学校が建ち始めたのが小学5年の時(昭和23年)、和田中学も入学時初めて完成。

 和田中一期生は和田小に間借り、2期生(自遊人)と一緒に初めて入校となる(昭和25年)。

 そのため中学は義務教育でも校区内に残った校舎が無いので本来は兄姉などと同じ学校の筈だが上3人とも中学校は全て別、長男―日本学園中、二男―和泉中、姉―女子美中、自遊人―和田中、弟ー松の木中、他妹も別中学校!

 小学生時代はまともな校舎は無く、実際勉強してきたのか誠に疑問だが終戦時、家族9人全員無事だったことが一番の幸せだったのかも・・・!
(2015、2、22旧ブログ投稿記事)
2018/02/01

焼夷弾のお皿・B29爆撃機(思いで)・・・旧ブログより移転

 今朝の朝日新聞に東京大空襲時に雨の様に降り注いだ焼夷弾の分解写真が出ていた。

(3月10日朝日新聞による)

 東京大空襲時は長野県に学童疎開していたが、今は亡き母親によると当日、自遊人が生まれた東京杉並の家(敷地内の空き家)に大音響とともに屋根を突き破り何か地中にめり込んだ。

 当時は不発弾だと思い家を取り壊し堀り出すと直系1m程の鉄のお皿だったと、お皿がどんな物か今一はっきりしなかったが今日の写真で納得!

 六角形の焼夷弾そのものは疎開から帰った時はあちこちに落ちていた。

 不発弾を捜し歩いていた学童も居た。
信管を抜き中のどろどろの油を取り燃料にするのだと聞いた。

 両親からは危険だから絶対に触っては駄目だと言われていた。
爆発して亡くなった児童もいたと聞いた記憶が有る。

 疎開前B29は1万mほどの上空を飛んでいたが飛来すると大宮公園あたりにあった高射砲が火を噴き上空に白点が点在するがB29は悠然と飛び去っていく、暫くすると高射砲の弾丸の破片がパラパラと屋根に落ちてくる。
その破片を拾い集めた記憶がある。

 現在自宅上空に飛来する海上自衛隊のP3C哨戒機は焼夷弾を落としたB29と大きさと言い形と言いそっくりなので当時を思い出す時が有る。
(2015、3、10旧ブログ投稿記事)
2017/12/23

西部劇DVD・西部劇観賞の思いで・・・旧ブログより移転

 久しぶりに物置の様な普段入らない八畳間を整理、まずガラクタが入っているカラーボックスや引き出し、古い本棚をどけて2×4材と1×6材で棚つくり!


 もはや使いそうもない辞書等は資源ごみ、本棚などは壊して燃える塵!


 引き出しなどを整理していると大分前に暇な時に見ようと購入し未開封の西部劇のDVD!


 懐かしく暫し感傷に浸る!

 映画鑑賞の思いで!

 西部劇を最初に見たのは昭和25年、東京笹塚の甲州街道沿いに有った笹塚劇場でみた「サンアントニオ」ストーリーなどは忘れているが高校時代には西部劇を見に毎週劇場へ、当時中野駅前の地下劇場、新宿コマ劇場まえロータリの地下劇場等西部劇専門劇場でいつも3本建て「必殺の一弾、ベラクルス、黄色いリボン、ビリーザキット」等何回見たことか? 

 最初に見た邦画は東京杉並の青梅街道沿いにあった映画館(現都バス車庫の場所)「蜂の巣の子供達」(昭和23年)

 学生時代から社会人に成っても毎週映画鑑賞、日活の石原裕次郎、小林明、大映の市川雷蔵、勝新太郎物等は全て見てるがこれは友人も誘えて無料だから!(その時のことを書いた雑感はこれ)・・・まことに良き時代!
(2014、9、8旧ブログ投稿記事)